シドニー浜の竹内文書・竹内文献に関するメモ帳
00.初代スレ『竹内文書って真実?』
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『神道大意』(シドニー浜簡単訳、校正:スーさん氏、原文提供:五十鈴人氏)
[訳文作成の主な方針としては、カタカナをひらがなへ改め、旧字体を新字体へ改め、
現代に殆ど見られない言い回しを現代でも通用する程度に書き改めました]

それ神とは、天地に先じてしかも天地を定め、陰陽を超えてしかも陰陽を成す、 天地に在っては神といい、萬物に在ては霊といい、人に在ては心といい、心とは神である、 故に神は天地の根元である、万物の霊性である、人倫の運命である、無形にして、 よく形ある物を養うのは神である、人の五臓に託して五神となる、各その臓を守る者である、 故に神の字をたましゐと読むのはこれである、 眼に色を見て眼はこれを観ず、 その観るところの者を神といい、耳に音を聞いて耳これを聴かず、 その聴くところの者を神といい、鼻の香りに於ける、口の味に於ける、 身の寒熱に於けるのもまた繰り返すごとくにこれであり、 当に心が知るのはすなわち神明の舎、 形は天地と同根であることを、天神七代と地神五代を合わせて十二の神とする、 彼の神力をもって天地を建立し、万類を養育する、 故に日に十二時あり、歳に十二月あり、人に十二の経絡あり、又は十二の因縁ともなる、 しからばすなわち天道も千変も万化も神明の仕業ではないという事はない、 いうまでもなく人は天地の霊気を受けて物と心に身体と運命を保つ者である、 その証明にいい、 頭に七穴があるのは天の七星である、 腹に五臓あるのは地の五行である、 上と下を合わせて十二があり、又これは天神地祇の変作である、 日月は天地の魂魄(*1)である、 人の魂魄はすなわち日月の霊性である、 故に神道とは、心に守る道である、 心動く時は魂魄が乱れ、心静る時は魂魄が穏やかである、 これを守る時は鬼は神鎮である、 これを守らない時は鬼は神乱して災難が起こる、 唯己の心の神を祭り過ぎるということはない、これを内清浄といい、 外清浄とは、心遣いには七つの品があり、 喜といい、怒といい、哀といい、楽といい、愛といい、悪といい、欲というこれである、 又形を用いるには五つの品があり、 生といい、長といい、老といい、病といい、死という、 合わせて十二があり、これはすなわち神代の数である、 心を用いるのは神ではないという事ではなく、 形を養なうには神を離れるという事もなく、 喜ぶ心が過ぎる時は肝臟の神が痛む、 怒る心が過ぎる時は心臓の神が痛む、 哀しむ心が過ぎる時は肺臟の神が痛む、 楽しむ心が過ぎる時は腎蔵の神が痛む、 愛する心が過ぎる時は胆嚢の神が痛む、 悪い心が過ぎる時は大腸の神が痛む、 欲の心が過ぎる時は脾臓の神が痛む、 故に神道は再び見る時に汚がれというのは、執着の心を忌む意味である、 忌の字は己の心と作られる、これをもって知るべく、 しかもこのようであるといえども、肉身を受ける者、 喜ばぬことが有るべきではなく、 怒らぬことが有るべきではなく、 哀まぬことが有るべきではなく、 楽をせぬことが有るべきではなく、 変わらぬことが有るべきではなく、 悪せぬことが有るべきではなく、 欲せずことが有るべきではなく、 結局、過ぎたるは及ばざるすなわち災難となるのである、 過ぎたるは及ばざるすなわち諸病となる、 これをしない者は中(道)である、 中とは神である、 神を知るのは悟りといい、神を知らぬことは迷いといい、 迷いが有るのは迷いを知らぬ、故に鬼神が乱れて道を失なう、 悟る者は迷いを知り、迷いを知る者は鬼神を祭る、鬼神を祭る時は道が治る、 道が治る時は他が従う、他が従う時は成功する、成功する時は名声を得る、 本文にいい、神を祭る者は安らかで、神を楽しまぬ者は危ないといえる、 神には三種の位があり、一には元神、ニには託神、三には鬼神、 初の元神とは日月星辰等の神である、 その光、天に現して、その徳は三界に至る、 しかれども直ぐにその妙躰(*2)を観ることは出来ず、 故にこの上なく清浄で測り知れぬ元神と呼ぶ、 二に託神とは非情の精神である、 非情とは草木等の類である、地に着いて気を運び、空に出て形を現し、 四季に応じて生老病死の色があり、しかれども全く無心無念である、 これを託神と呼ぶ、 三に 鬼神とは人の心の動作に伴うことをいい、 わずかに一念動けば他の心境に移る、故に天地を感じれば、 天地の霊は我が心に帰(皈)する、心に草木を感じれば、 草木の霊は我が心に帰する、心に畜類を感じれば、畜類の霊は我が心に帰する、 心に他人を感じれば、他人の霊は我が心に帰する、字書がいうには、鬼とは「皈」である、 しからばすなわち鬼神は心の大事な客である、他から来て他に帰り、 家を出て家に帰るがごとし、国家を保つ者は鬼神が多く鬼神が乱れる時、 国が破れると見えており、それに依り伏義は八卦を書かして八神を祭り、 釈迦尊は天地の為に十二神を祭り、仏法の為に八十神を祭り、伽藍(*3)の為に十八神を祭り、 霊山の鎮守として金毘羅神を祭る、即ち十二神の第一である、 この金毘羅神は日本三輪大明神であると、伝教大師帰朝の文に記載されており、 他国はこれに習い、他がいうまでもなく吾が神国に於いてもそうである。 “億万歳”

(*1)魂魄:中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると 考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。 魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。 民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、 人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。 (三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、 七魄は「尸狗、伏矢、雀?(陰)、容?(吝賊)、非毒、除?(陰穢)、臭肺」とされる事もある。)

(*2)妙躰:妙躰の「妙」の字は、たえなるという意味であり、即ち不思議なほどにすぐれているさま。 霊妙なさま。みょうというならば、非常にすぐれていること。並外れて素晴らしいこと。 また、そのさま。という事になり、「躰」の字はからだと訓む。 即ち、妙なる身体であり、非常にかつ不思議に優れた様を表しているので、 この神道大意の中で使われている、この直ぐには見えないとされるからだの 正体は神の姿と考えることができる。

(*3)伽藍僧園・衆園・精舎(しようじや)と訳す〕寺の建物。特に、大きな寺院。僧伽藍。


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